親の心子知らず
今回は、読者の方のご要望にお応えし、「親の心子知らず」を取り上げたい。
親が子を思う気持ちはなかなか子供に伝わらず、子供は自由気ままにふるまうものだ-「まさにその通り!」と思われる方、かなり多いのではなかろうか。特に反抗期を迎えたお子さんをお持ちの方は、身に染みてそう感じておられると思う。高校生の息子がいる我が家も、同じような状況である。
もちろん息子も息子なりに、親の気持ちを感じているとは思う。口にも態度にも出さないが、ちょっとした表情の変化や雰囲気で、分かってくれてるな、と感じる瞬間もある。こういう瞬間は嬉しいものだ。気持ちが伝わったというか、何かが繋がったような感じがする。まあ、そうそうあるわけではないが・・
それにしても、「親の心子知らず」とは、よく言ったものだと思う。「心」という一文字に、無償の愛情、尽きぬ心配、期待と信頼、様々な思いが詰まっている。そんな思いを、子供は「知らず」。伝わらない、分からない、というわけだ。このいかんともしがたいすれ違いを、ズバリと言い当てているがゆえに、このことわざは多くの人の心を捉え、今日まで使われ続けているのであろう。
しかし、である。人間関係におけるすれ違いは、当たり前と言ってもいいくらい、いつでもどこでも起きている。それなのになぜ、親子間のすれ違いにだけ、このようなことわざがあるのだろうか?例えば、「妻の心、夫知らず」「夫の心、妻知らず」ということわざはない。「上司の心、部下知らず」「部下の心、上司知らず」もない。
あくまで個人的な考察だが、それだけ親子関係は特別、ということではないだろうか。特に母子の絆は深い。なにしろ自分の中から出てきた子だ。自分の分身、自分の一部のように、母親は感じるという。そんな子供にかけてきた愛情の大きさは、それこそはかり知れないと言っていい。それがなかなか分かってもらえない、と感じた時の落胆、嘆き、憤りは、子供の幸せを願う心が大きいだけに、どうしても強くなってしまうのだろう。
子供は自分とは違う個性を持つ、別の人間である。親子とはいえ、別の個性である。この事実は、頭では分かっていても、腹に落とすのは難しい。他人だったら伝わらなくても仕方がない、と思えても、子供になるとなかなかそうは割り切れない。自分とは違う個性という意味では、他人も子供も全く同じなのだが。
たとえ親子であっても、個性は違う。個性が違う以上、分かりあうことは難しい。親子関係だけではなく、全ての人間関係は同様だ。しかしそれだからこそ、分かりあえた時の喜びは大きく、人生は面白いのかもしれない。
子供が自分の気持ちをどう受け取るかは、100%子供次第だ。自分ではどうしようもない。ゆえに大切なことは、伝わるかどうかに関わらず、自分がどんな思いを抱いているか、それだけではないだろうか。そしてその思いとは、最終的には、ただ相手の存在そのものに対する、尊敬と感謝に尽きるように思う。子に対しても、そしてもちろん、親に対しても。
ちなみに江戸いろはかるたの「お」の札は、「親の心子知らず」であった。江戸時代の人たちがかるた遊びをしながら、どんな思いでこの言葉を味わっていたのか、想像すると面白い。「親の心子知らず?なんでや、子の心親知らずやろ。」とつぶやく子。「昔は親に苦労をかけたな・・」と、故郷の父母に想いを馳せる大人。時代は違えど、結局は同じ人間。親子関係も、今とそれほど変わらない気がするが、皆様はどう思われるだろうか。
さて改めて、「親の心、子知らず」。親としてまた子として、親子という関係を深く考えさせられる、素晴らしいことわざであった。お題を出してくれた読者の方に、この場をお借りして、厚く御礼申し上げる。
この記事は、JBSDデトロイト日本商工会の会報、「Views」の2026年9月号に掲載されたものです。
